シド

今から55年前である1957年の今日、5月10日は1970年代後半に一世を風靡したイギリスのパンク・バンド、『セックス・ピストルズ』のベーシスト、シド・ヴィシャスの誕生日です。

ロンドン・パンク・ムーヴメントを代表するバンドであったピストルズは、世界のポップ・ミュージック・シーンで初めて、自国の王室や政府や大手企業を名指しで攻撃したことで有名な過激な音楽集団でした。

『パンク』は、私が嫌いな音楽のベスト3に入っているのですが、ピストルズの『God Save The Queen』など数曲は学生時代、非常にいい曲だと思った記憶があります。

メチャクチャ簡単な曲なのですが、当時、時代にぴったりはまっていたんだろうなぁと思うし、ジョニー・ロットンの巻き舌を駆使した歌い方が高い効果をあげていて、何だか街に出て火炎ビンを投げたくなってくる気持ちにさせられました。扇動的な曲でしたねぇ。

ストーンズの『Street Fighting Man』なんかも学生運動の時にかけられたりしていたと聞きますし、やはり各世代ごとにこういうもんは出てくるんだなと。
逆に言えば、そういう『駆り立てる』力があってこそのロック・ミュージックだと言えるでしょうし、そうでなかったら『若者の音楽』とはとても言えないですね。いい部分でもあり、悪い部分でもあるのでしょう。

このシド・ヴィシャスという人はもともとからのメンバーではなく、初代のベーシストが辞めた後に加入した2代目らしいのですが、その、パンク・ロックを地で行く生き方から、ヴォーカルのジョニー・ロットンと人気を二分していました。

彼を『パンクの精神』と呼び、崇拝する人間はイギリス国内外問わず数多いそうで、ミュージシャンとしてより、一種の『アイコン』として存在感があった人のようですね。
極度の麻薬中毒者としても知られ、1979年、薬物の過剰摂取により21歳で死亡しています。…21歳って早死にだなー。本当にまだ子供ですね。世の中のこと何にもわからないうちに死んでしまったんでしょうな。

元々彼は、セックス・ピストルズの熱狂的なファンの一人で、ファンの頃からピストルズの記者会見中に記者が邪魔でピストルズが見えないと言ってその記者を殴るなど、狂信的なピストルズ・ファンのなかでも目立った存在だったそうです。

『シド・ヴィシャス(悪徳のシド)』というのは芸名で、本名はジョン・サイモン・リッチー。
ジョニー・ロットンが昔飼っていたハムスターの名前が由来で、このハムスターはロットンの父親に噛み付いた事からヴィシャス(凶暴な)という苗字がつけられていたらしい。

ヴィシャスとロットンはファッション関係の専門学校時代からの友人で、その縁から2代目ベーシストに就任しました。しかし、加入した当初は全くベースを弾いたことがなく、またその後も大して上達はせず、専らライブではベースで客を殴ったり、喧嘩ばかりしていたそうです。(笑)

彼の有名な写真に、胸に剃刀で『FUCK』と刻み、血まみれになりながらベースを提げたものがありましたが、過激な伝説とは裏腹に、本来は非常に気弱で貧弱な青年でだったそうで、ロットンも『ヴィシャス』という芸名について「奴の性格から一番遠い名前をつけた」と語っています。

…まあ、伝説とかって大体こんなもんですよね。スターの虚像を拭い去ると、大体、小心で内向的な人物だったりします。
それにしても、バンド加入の時点で「一切ベースを弾けなかった」って…。加入できるのがすごい。(笑)

セックス・ピストルズが解散すると、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やエディ・コクランの「サムシング・エルス」、「カモン・エブリバディ」などのパンクバージョンを収録したソロアルバムをリリース。一本立ちを決意したようですが、動画でもわかるようにパフォーマーとしてソロでやっていくにはかなり貧弱です。スーツとか着込んでシナトラとか歌っても、顔と頭はそのままで、どう見てもチンピラのアンちゃんだしなぁ。ピストルズの時とおんなじ表情してる。(笑)

私生活でも以前から耽溺していた麻薬のためスキャンダラスな行動を繰り返し、とうとう1978年10月13日にニューヨークにあるチェルシーホテルのバスルームで恋人のナンシー・スパンゲンの死体が発見されることになります。1986年に公開された、ヴィシャスの生涯を映画化した有名な映画、『シド・アンド・ナンシー』に出てくるシドの恋人です。

世紀のバカップルですね。

『俺たちに明日はない』という映画で有名なボニー&クライドみたいなもんで、意識していたのかどうかは知りませんが、写真を見ると本当に頭の悪そうなカップルです。(笑)

真相は闇の中ですが、凶器のナイフがシドの所有物であったことから、麻薬で錯乱したシド自身が刺殺したとも言われているそうです。
逮捕後、レコード会社が多額の金を払い保釈されるもののその後も自殺未遂を起こしたり、パティ・スミスの弟をビール瓶で殴るなどの騒ぎを起こした末、1979年2月2日、遂に麻薬の過剰摂取により死亡しました。

■ シドのドキュメンタリー ■
http://www.youtube.com/watch?v=SeoEQCBMSDg&feature=related

■ ピストルズでの在りし日のシド ■
http://www.youtube.com/watch?v=yInsMNJ4fcM&feature=related

上にあげた動画を見ていると、当時は確かにセンセーショナルな存在だったのでしょうが、今見返してみるとなんだか「痛々しい」ですね。
背伸びしすぎ、つっぱりすぎて訳わかんないことになっちゃってる、みたいな。

シドのドキュメンタリーで街行く人が眉をひそめてシドを避けていますが、やっぱりこれが普通の反応だよなぁ。(´A`)

太陽黒点

NASA(米航空宇宙局)によると、太陽の表面に地球の直径の10倍もの幅がある巨大な黒点群が9日までに観測されたそうだ。

その周辺では比較的大きな規模の爆発現象『太陽フレア』が7回発生。この影響で、地球でオーロラが観測される可能性があるという。

黒点群は5日に太陽の左端で見つかった後、自転に合わせてゆっくりと移動。肉眼でも識別可能で、NASAは大きさを「モンスター級」と表現しているらしい。

黒点は、磁場の影響で太陽のガスの対流が妨げられてできると考えられており、温度が4千度と、通常の太陽表面温度の6千度に比べて低いため暗く見える。太陽活動とも密接な関係があり、活発になると黒点が増えるとされる。

http://www.oita-press.co.jp/mobile/data/t_worldMain/2012/05/240_PN2012051001001009.-.-.CI0002.jpg

↑ コレ、私も画像見ましたがかなりデカイですね。最初見た時、ディスプレイに汚れがついてるのかと思った。(笑)
「地球の直径の10倍もの幅」ってものすごい。最近、「太陽の活動が活発化している」、だの「太陽の北極で磁場が反転した」だのよく聞きますが、画像で証拠を突きつけられるとショッキングなものがありますね。

何度もこのブログでも書きましたが、地震など各種天災の頻発に連動しているようでコワイ。

俗に「満月は人の精神状態に影響を与える」といいますが、太陽もこんだけ異変起こってるなら、なんかしら人をおかしくさせるかもしれません。

今月21日に極めて稀な『金環日食』があるそうで、随分前から話題になってますが、変なことがおこらなければいいですがね。

ちなみに金環日食でも太陽の黒点でも、専門家が天体望遠鏡などを使って観測する場合は「絶対に直接目で見ないように」と注意を呼びかけていますのでみなさん注意してください。

浮遊弾

米軍が空中で浮遊する能力を持つ弾を研究開発する予定である事が明らかになったそうだ。
射程距離100メートル以上で、20秒以内にターゲットをロックオンする新型の兵器だという。

この兵器はリアルタイムの攻撃ができなかった場合でも、極めて小さな弾がターゲット上空を30分間浮遊し続け、機をうかがって再び攻撃できるというものらしい。

またまた、とんでもないものを考えつきましたね。

『ガンダム』の一番初めのシリーズのなかに『エルメス』というモビルスーツがあって、機体の周りに小さなボール状のものが飛び交い、あらゆるタイミングで相手に攻撃を仕掛けていましたが、アレみたいなもんなのか。
『誘導ミサイル』とかとはまた違うシロモノらしいが。

「相手にスキができるまで弾丸が空中で待ってる」と。

…怖いな~。

ハチなんかが刺す機会をうかがって空中で上がったり下がったりしてるイメージだな。

これができるなら、「弾丸がフェイントをかけてくる」とかもありそうだ。(汗)

ペニー

野球でもサッカーでもなんでもそうだが、スポーツの世界にはどこの国にも、『助っ人外国人』というのがいる。

最近ではソフトバンクホークスが、巨人に移籍した杉内の代わりに大型補強として2006年のメジャー最多勝投手ブラッド・ペニーを獲得した。
年俸約2億2800万円とされる豪腕で、メジャー通算100勝を超え、MLBオールスターゲームにも2度選出されているそうだ。

…しかし、今日のニュースで早くも退団することを知って驚いた。(笑)

注目の日本初登場となった今月4日の楽天戦では、4回を持たずに6失点という散々な内容。試合後に右肩の痛みを訴え、翌日には出場選手登録を抹消されると、福岡市内の病院で検査を受け、異常なしとされたにも関わらず、7日にはそそくさとアメリカへ帰国をしてしまったそうだ。

そして、11日、自身のツイッター上に、飼っている子馬とのツーショット写真がアップされた。そのいい加減さにファンが激怒していたらしい。

掲示板などでは、

「完全に遊んでるwww」

「ジャパンマネーで子馬を買ったのか」

「ここまで清々しいクソ外人は久しぶりだな」

「帰って来る気0やないかこれ」

「完全なる給料泥棒やん」

といった怒りの声が相次いでいるそうだ。(笑)

…そして今日、登板わずか1試合で退団することが決定。

退団の理由としては、

「日本球界になじめなかった」

…って、これ噴き飯ものですね。(笑)

メジャーでもたびたびトラブルメーカーとして、問題となっていたらしいが、これはヒド過ぎる。

大物外国人が来日すると、この手のトラブルよくある。

スポーツの世界では、大きな才能にワガママはつきものなのだろうが、『一切働かずに金だけもらう』というのはあまりにも面の皮が厚すぎる。

「肩が痛い」というのも、結局異常なしだったわけですし。

しかも、退団後すぐにメジャーリーグの複数の球団から獲得オファーを受けていることが明らかになっているそうだ。

完全に売名行為まで兼ねてるやん。(笑)

…そういえば日韓ワールドカップの後くらいにもトルコ代表だった『イルハン』ってヤツがいたなぁ。

ルックスが良くて『イルハン王子』とか言われてたけど、なんにもせずに金だけもらってすぐ帰った。(笑) あれは詐欺だと思ったな~。

みんな、

「どこが王子なんだよ」

「乞食じゃん」

とかブーブー言ってたな。(笑)

「残念ながら期待されていた働きができませんでした」っていうのは、まぁあるし、しょうがない部分もある。

ブラジル代表でアメリカワールドカップをロマーリオとのコンビで制し、フランス・ワールドカップの時にはロナウドとコンビを組んでいたベベットが鹿島アントラーズにやってきたときは相当期待したが、フタを開けてみると一切役に立たなかった、というのが昔あった。
でもあれは一応、「やってダメだった」わけで、それは本人も批判されて自分の価値も下がるというリスクを背負うわけだからまだわかる。

それに比べると、1試合で「肩が痛い」、「日本に馴染めなかった」で辞めていくというのはあきれますね。今後、選手獲得の際の教訓とするべきでしょう。

あと、ホントは見えないところで思いっきり何もしてないのに、いかにも自分が最大の活躍をしてますって触れ回るヤツも最悪ですね。

気象戦争

先日、群馬県で発生した竜巻が大きな被害をもたらしましたが、最近の天災は頻度が増えているだけでなく、規模も大きくなってきていて怖いものがあります。

まぁ、アメリカでよくあるハリケーンなどと比べるとまだマシなのでしょうが、被害の映像を見る限り、電柱なんかもなぎ倒されるくらいですから大被害には違いない。

…竜巻なんか避けようがないからなぁ。

竜巻の進路に自分の家が建ってたらおしまいです。地震もそうですけどね。いっそのことアメリカのハリケーンみたいに家ごと巻きあげてもっていかれたほうが、あきらめがついて気がせいせいするかもしれない。

地震、津波、ゲリラ雨、落雷、異常寒波に猛暑、そして突風、台風、竜巻。

「自然現象だから」と言えばそれまでですが、最近の天災は人間が自然を歪めたせいで被害が大きくなっている気がするので、半分「人災」のような気がしてきます。

昔、幅広い領域でたくさんの業績を残したフォン・ノイマンという学者がいて、気象学の分野にコンピューターを持ち込んだ草分け的存在でもあったのですが、彼は当時本気で『気象戦争』を心配していたそうです。

現在の温暖化も予測してましたし、気象のコントロールにより相手側の大陸を凍り漬けにする方法など物騒なことについても考察していたようです。

南極大陸などの表面に着色剤みたいまものをどれぐらい撒いたら反射や地熱の関係で地球全体の温度がどれぐらい変わって…なんて考えて、どれぐらいのコストがかかるかまで計算していたそうです。

その話を知ったときは、実用性に欠ける感じがしたものですが、最近の気象災害の猛威と威力を見るにつけ、兵器になったらかなり怖いものになるなと感じました。

原爆などのエネルギーよりも自然現象に秘められたエネルギーのほうがはるかにケタ違いらしいですしね。

直接的な攻撃に使用しなくても、相手側の国の温度を何度か上げたり下げたりするだけで、あらゆるものが狂い、人や産業、経済的にも甚大な被害をもたらすことができます。

最近、天災のニュースを見るたびに、「天災なんかを制御できる技術ができないかな」と思うのですが、できたら間違いなく悪用されることが予想されますので、難しいところですね。

花道

■ 勇退するグアルディオラ監督と、その花道を飾る4ゴールを挙げるメッシ ■
http://www.youtube.com/watch?v=Peqzd76ev7Q&feature=related

バルセロナのジョゼップ・グアルディオラ監督が勇退する。

スターぞろいのチームを率いたこの4年間で獲得可能なあらゆるタイトルを手にした彼は現在、全18タイトルのうち13を獲得し、申し分のない業績を挙げた監督だが、「気力が尽きた」という言葉通り、監督業とは非常に消耗する仕事なのだろう。

「後世のチームがペップ(グアルディオラの愛称)のバルセロナ以上に美しいプレーをするのは非常に難しいだろう」と言われ、「サッカー史上最も美しいチームを作り上げた指揮官」とも言われている彼は、「病的とも言える戦略家」だったという。

グアルディオラが去った後は、現コーチで、これまでグアルディオラの参謀を務めてきただけでなく、下部組織時代からリオネル・メッシの成長に貢献し、セスク・ファブレガスをイングランドから呼び戻すために尽力したビラノバが監督に就任することになっている。

この人選は、バルセロナがこれまで行なってきた確固たる強化方針を継続するもので、バルセロナは方向性を見失わず、これまでと同じ手法で強化を継続するという選択をしたようだ。

5日に行われたリーガ・エスパニョーラ第37節、前節で2位が確定したバルセロナは、チームの全得点をたたき出したリオネル・メッシの活躍により、エスパニョルとの『バルセロナ・ダービー』に4-0で圧勝した。今季ホーム最終戦を白星で飾ったバルセロナは、シーズン終了後の退任が決定しているジョゼップ・グアルディオラ監督のカンプ・ノウでの最後の指揮に花を添える形となった。
 
上に挙げた動画の冒頭にも出てくるが、グアルディオラ監督への感謝の意を込めた横断幕がスタンドに掲げられる中で始まった試合は、4ゴールを挙げたメッシがゴール後にグアルディオラ監督の元に歩み寄り、抱擁をかわしてチームメートも祝福に集まるなど、終始、素晴らしい雰囲気に包まれ、バルセロナの完封勝利に終わった。

試合後にはグアルディオラ監督のスピーチが行われ、サポーターも「グアルディオラ!」の大コールで応えた。最後は胴上げされた上に選手とスタッフが作った花道を通り、4年間にわたり采配を振るったスタジアムから勝者として送り出された。

…う~んいいですねー。しかし本当に上手くやりましたね、グアルディオラは。

監督就任当初は、まだ若造扱いされている感すらありましたが、フタを開けてみると、就任初年度から優勝街道を驀進。

選手としては、ルイス・エンリケやフィーゴやロナウドと組んだバルサの黄金期を支え、圧倒的な支持を受けていたが、やはり監督になっても優秀でした。

残念ながら、今季の優勝レアルに持っていかれましたけど、この監督の花道を飾ろうというのが、チームのモチベーションになっているようで、チームは現在も素晴らしいサッカーを継続しています。そういう流れで、メッシの4ゴールも生まれたのでしょう。

2試合連続となる今シーズン8度目(!)のハットトリックを達成。さらに今シーズン2度目となる1試合4ゴールをマークし、これでリーグ戦得点数を50の大台に乗せたメッシ。

リーガ得点記録を更新するとともに、’76~’77シーズンにディナモ・ブカレスト(ルーマニア)のドゥドゥ・ゲオルゲスクが記録したリーグ戦47ゴールを上回り、欧州リーグのシーズン最多得点記録を塗り替えたのですから大したものです。

配送業者

会社にいつも集荷に来てくれる配送業者さんに、最近女の子が混じってくるようになったのだが、かなりハードな仕事なだけに、「スゴイなぁ」と、何気に感心している。

ウチはヤマトと佐川に来てもらってるのだが、ヤマトのほうの担当が女の子になった。

男に比べてどうなんだという話だが、これがしっかりした人で、その前に来ていたアンチャン風の人よりずっといい。

ヤマトは一時期、中国の人とか外国人が増えた時期があったが、事務ならともかく、配送のほうに女の子が増えるとは思っていなかった。

配達する場所はエレベーターのあるところばかりではない。

階段も登り下りしなければならないし、歩く距離、走る距離、登る距離を考えたら相当な運動量だ。

特に雨の日や、真夏、真冬はさらに消耗度が高くなる。

ちょっとしたアスリートですね。

これから夏になってくると相当キツイと思うが、大丈夫なんだろうか?自分がもしなったら夏は間違いなく体調を崩すと思う。それとも、しばらくやっているとそういう体になってきて、平気になるのだろうか。

子供の夢

「大きくなったら、何になりたいか」

という質問は、子供の頃たびたびされる質問で、みんな幼稚園や学校で、作文を書かされたり、文集に書いたりしましたね。

ネットで、『子供の頃の夢と現実のギャップ』というのがやっていて、女の子なんかだと、『お花屋さん』、『ピアノの先生』、『お嫁さん』なんかが上位に来ていて、これがもっと年齢が上がってくると、『スチュワーデス』や『アイドル・芸能人』などになってくるみたいです。
それが大人になってみると、まるで違う職業をえらんでいる、という話なんですが。

私に関して言えば、小学校の文集などをひもといてみますと、

『文房具屋さん』

と書いてある。

…ずいぶん小さな夢だなぁ。(笑)

まあ、目指してなくて良かった。今は100円ショップなどの台頭で、街から文房具屋さんなんて消えてますからねぇ。随分減りました。

子供の頃、なぜか文房具とか工具とか、ああいうものが好きだった。別に何を作るというわけでもないのだが。

友人を見回しても、子供の頃言っていたような仕事に就いている人はほとんどいない。

『似たような方向性』というのはたまにありますけど。

人間って、変わる生き物なんだなぁ。

叫び

ノルウェーの画家エドヴァルト・ムンクの代表作、『叫び』が2日、米ニューヨークで競売大手サザビーズのオークションにかけられ、美術品として史上最高額の1億1992万2500ドル(約96億円)で落札されたそうです。

今回のオークションは当初から8000万ドル以上での落札が予想され、専門家の間では記録を塗り替えるだろうと予想され、騒がれていた模様。

絵画のオークションでは2年前にパブロ・ピカソの『緑の葉と裸婦』についた1億650万ドルがこれまでの最高額。ムンクの作品の過去最高額は3800万ドルだったらしい。

今回出品された「叫び」は、1893~1910年の間に描かれた4点のうちの1点で、出品したノルウェーの実業家ペッター・オルセン氏は、父がムンクと親交があったとされる。

落札者は公表されていない。個人が所蔵しているのはこの1点のみで、残る3点はノルウェーの首都にあるオスロ国立美術館とムンク美術館が収蔵しているそうだ。

4枚あるとは知りませんでしたね。…この絵はすごいインパクトがあるので、私も覚えています。15年くらい前にグッズ化されて、ビニール人形にもなってましたね。

自然の叫びに対して、ムンク自身と言われている人物が耳をふさいでます。ドイツ語の原題は『Der Schrei der Natur(自然の叫び)』。

ムンク自身の1892年1月22日の日記にこうある。

「日が沈むころに、友達と歩いていた。突然、空が血のような赤に変わったのを見て、私は立ち止まり、急に疲れを感じで柵に寄りかかった。血と、炎の舌が、青黒いフィヨルドと街並みの上にあった。私の友達は歩き続け、私は突っ立って不安に震えつづけた。そして私は、はてしない叫びが自然を突き通すのを感じた」

この場所の近くに屠殺場と精神病院があったので、そこからヒントを得たという説がありますが、たしかに不気味な感じがする絵です。
同じ精神病院かは分かりませんが、近くの病院にムンクの妹か姉が、ひどい鬱か何かで入院していたそうです。

彼自身、病弱な子供だったため、常に死の不安にさらされて生きてきたそうで、晩年にはアルコール中毒になったり、自殺未遂で発砲、指を失うという目にも遭っている。

「作品には作者の人生が表れる」といいますが、ムンクの作品群を見ていくと、かなり重い人生だなー…って思いますね。こんな生涯やだなぁ。

少なくともこの『叫び』を部屋に飾ろうとは思わないが、史上最高の値がつくということは、時代の風潮というか、現代人の琴線に触れる部分があるんでしょう、多分。

私達も大なり小なり病んでいるということかも知れません。

木村政彦

先日、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』という分厚い本を見かけ、少し読んだ。
昭和の柔道家、木村政彦の生涯を追うドキュメンタリーらしいが、内容がすごい。

この木村政彦という人は約20年前の1993年に亡くなられているが、全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退したという驚くべき経歴の持ち主で、現在においても史上最強の柔道家と称されることが多く、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられているらしい。

熊本県の出身で、10歳から古流柔術の竹内三統流柔術道場に通い始め、猛烈な鍛錬で高校1年の頃には早くも講道館四段を取得。
全国大会では大将として母校を率い、各種大会で圧倒的な強さで優勝に導き、『熊本の怪童』『九州の怪物』と全国にその名を轟かすようになる。

その後、新たな師匠となる人物の下で研鑽を積むのだが、この人物がまたすごい。

その名は『牛島辰熊』

一つの名前の中に、『牛』と『辰』と『熊』が入っている…。(゚д゚|||) 写真を見ましたけど、格闘家以外あり得ないといった風貌で、いかにも『牛島辰熊』な感じの人でした。(笑)

彼は、木村の母校のOBであり、拓殖大学の師範を勤めていた人物で、当時は『鬼の牛島』の異名を持っていたそうだ。
東京の自宅で『牛島塾』という道場をやっており、木村はそこに引き取られて激しい稽古を受けた。
相当厳しい師匠だったらしいが、木村はそれに飽きたらず、1人で出稽古に回り1日10時間という練習量をこなし強さを磨いたそうだ。

『1日10時間』って明らかにオーバーワークでしょ。(笑)

木村は非常に研究熱心であり、さまざまな技の改良に努めた。
現在世界中で活用されている技術である、『相手の腕を帯や道衣を使って縛って抑える技』や、『寝技だけでなく、立技から引き込み返しを掛けながらの腕ひしぎ、相手が自分の帯を握って頑張っている時に一度逆に振って腕ひしぎに極める方法』も拓大予科時代に木村が考案したものだそうだ。
これらは当時としては斬新的な技術だったらしい。

努力の甲斐あって1936年には、当時、学生柔道の団体戦として最もレベルの高かった高専柔道大会に大将として出場し、拓大予科を全国優勝に導いた。

1937年から全日本選士権3連覇を達成、さらに1940年に行なわれた紀元二千六百年記念行事の天覧試合でも5試合をすべて一本勝ちという圧倒的な強さで優勝。この後も大小大会含め無敗だったものの、1942年に兵役で柔道を離れざるを得なくなった。
しかし、1949年の全日本選手権に出場するや、ブランクを感じさせず圧倒的な強さで優勝。全日本選手権13年連続保持という驚異的な記録を残している。

全盛時の木村政彦の練習の量・激しさにはさまざまなエピソードが残っている。

■1日10時間を超えた練習には、拓大での稽古だけではなく、他大学や警視庁、皇宮警察などを回って乱取り稽古が含まれていた。
■夜になると、師の牛島にならい大木に帯を巻いて一日1000回打ち込みをし、遂にはその大木を一本枯らしてしまった。
■「寝ている時は練習をしていない」と考え、睡眠時間を3時間にし、しかも睡眠中にもイメージトレーニングをしていた。(笑)
■剛柔流空手と松濤館空手の道場にも通い打撃技を習っていた。
■戦後は米兵のヘビー級ボクサーとスパーリング中心の練習をこなしてボクシング習得にも挑戦した。
…などなど。

『単純な筋力』だけをとっても有名で、夏の暑い日、師匠の牛島が木村に団扇で扇いでくれと言うと、木村はその場にあった畳を持ち上げ、それを扇のように仰いで牛島を驚かせた。(笑)
さらには、両腕を伸ばした状態で肩から手首に掛けて100kgのバーベルを転がすこともできたという。

当時、木村は師の牛島と共に、本格的にウエイトトレーニングを行い抜群の筋量とパワーを誇っていた。
そのトレーニング方法は、単に重量を扱うだけではなく、例えば100kgのベンチプレスを1時間1セットで何度も繰り返す、仕上げに腕立て伏せを1000回行うなどといった非常に激しいものだった。
その鍛え抜いたパワーは、障子の桟の両端を持って潰すことができ、太い鉛の棒を簡単に曲げたという。

木村本人の写真をみると、本当に昔の日本にこんな体格の人がいたのか、というほどマッチョで、顔との対比がアンバランスに見えるほどの肉体である。「…これCGじゃないのか?」と疑いたくなるような筋肉だ。
170cmで85kgの体格は当時としても柔道家としては大きな方ではなかったが写真で見る限り、ヘビー級並のパワーを有していたことは想像に難くない。

絶大な筋力からくる馬鹿力を生かした彼の得意技は強烈な大外刈で、寝技ではあらゆる体勢から取ることができる腕ひしぎを得意としていたらしい。
稽古ではあまりに失神者が続出するので木村の大外刈は禁じられ、後には脱臼者が続出するという理由で腕ひしぎも禁じられたという。相手がいなかったんですね。(笑)

肉体の強さと並び、後世まで賞賛されているのは、その精神力の強さで、最も知られている話に「負けたら腹を切る」がある。
試合前夜には短刀で切腹の練習をしてから試合に臨んだとされ、決死の覚悟で勝負に挑んだという。最終的に15年間無敗でプロに転向したため、切腹は免れたそうだ。…昭和になっても、『生き方』として武道家を貫いた人が残っていたんだなぁ。 (゚Д゚;)

1950年2月、内定していた警視庁の柔道師範の話を断り、師匠の牛島辰熊が旗揚げした国際柔道協会いわゆるプロ柔道へ山口利夫、遠藤幸吉らと共に参加する。4月16日には後楽園でプロ柔道としての初試合を行い、トーナメントを勝ち抜き優勝。プロでも木村は1度として敗れず、連勝を重ねていった。

しかし、その後プロ柔道は客足が次第に衰え、スポンサーの経営不振も重なって下火になってしまう。

その頃、妻が肺病に侵されたため、治療費を稼ぐ必要に迫られた木村は、告訴される事も承知で国際プロ柔道協会を脱退し、現地の日系実業家によるハワイ諸島での柔道巡業の要請に応じて夜逃げ同然にハワイへと渡航した。

高額の報酬が目的であったが、ハワイでの巡業で腕自慢の飛び入りを相手にしたり、10人掛けといったこの興行が人気を博し、この人気に目をつけたプロレスのプロモーターに誘われ、木村プロレスラーに転身した。

1951年、サンパウロの新聞社の招待で、山口利夫、加藤幸夫とともにブラジルへ渡る。プロレス興行と並行して現地で柔道指導をし、昇段審査も行った。ところが、加藤幸夫が現地の柔術家エリオ・グレイシー(ヒクソン・グレイシーやホイス・グレイシーの父)に試合を挑まれ、絞め落とされ敗北してしまう。

エリオは兄のカーロス・グレイシーがやはり伝説的な日本の柔道家・前田光世より受け継いだ柔道に独自の改良を加え、寝技に特化させたブラジリアン柔術の使い手であった。エリオは加藤だけではなく、木村がブラジルに来る前から日系人柔道家たちを次々と破り、ブラジル格闘技界の雄となっていたのだ。その結果を受けて、木村は10月23日にリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムでエリオと対戦した。

エリオは棺桶まで用意したという決死の覚悟で挑んだが、木村は2ラウンド目に得意の大外刈から腕ひしぎに極め、エリオの腕を折った。この時点で試合続行は不能だったが、エリオは強靭な精神力でギブアップを拒否し、危険を察したセコンドのカーロスがタオルを投げ込み、木村の一本勝ちとなった。後年、木村はエリオの事を、

「何という闘魂の持ち主であろう。骨が折れ、骨が砕けても闘う。試合には勝ったが、試合への執念は私の完敗であった」

と、その精神力と武道家としての態度を絶賛している。

なお、腕ひしぎがブラジルやアメリカで「キムラロック」あるいは単に「キムラ」と呼ばれるのは、この試合が由来だそうだ。エリオが木村の強さに敬意を払い名付けたとされる。…いい話だなぁ。

後に95歳まで生きたエリオは、晩年、「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家・木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っている。グレイシー博物館には、木村と戦った時に着た道衣が飾られているという。

その後、帰国た木村はプロレスラーとして力道山とタッグを組み、全国を14連戦してシャープ兄弟などと戦った。
しかし、引き立て役とされたことに不満を募らせた木村は朝日新聞紙上で「力道山相手でも真剣勝負なら負けない」と発言した。この記事に力道山は激怒し、結果としてプロレス日本一をかけ『昭和の巌流島』と称し、両者が戦うこととなった。
この戦いで木村政彦は謎のKO負けとなり一線を退くこととなる。これがこの本のタイトル『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』につながっていくわけですね。
木村側の主張によると、力道山の不意打ちだったらしい。

この試合においての木村の敗北は、プロレスを甘く見ていた結果、いや力道山側の騙し討ちであるといった両方の見方がある。
その後、木村と力道山の再試合が組まれることは無かった。さらに後日それぞれの後ろ盾の暴力団同士の仲介で、手打ちが決まり和解することとなった。後に木村は、屈辱的な敗戦の後に力道山と金銭で和解したのは、すべて妻の結核が理由であり、アメリカ製の高価な薬ストレプトマイシンの費用を捻出するためであると語っている。なお、この薬のおかげで彼の妻は命を取り留めた。

1961年、再び柔道界に戻り、拓殖大学柔道部監督に就任。のちに全日本柔道選手権大会覇者となる岩釣兼生らを育て、1966年には全日本学生柔道優勝大会で拓殖大学を優勝に導いた。練習の厳しさについては、相も変わらずで、「今の柔道はブタのやる柔道」とスポーツ化した現代の柔道を厳しく批判したている。

そして、1993年4月18日死去。75歳だった。現在では彼は総合格闘技の先駆であったともされている。

今でも、生前の木村を知る人々は、口々にその強さを賛嘆している。

198cm120kgで15年間不敗、またその人並み離れた逸話から、木村はしばしば史上最強の柔道家と評価されるアントン・ヘーシンク、また同じく史上最強と評価されることもある山下泰裕でも全盛期の木村からしたら相手にならないという。

木村の全盛時代を知る広瀬巌(1941年の全日本選士権覇者)は、山下泰裕が騒がれている時、「木村の強さはあんなものじゃなかったよ」と言い、1948年の全日本選手権を制し東京オリンピック監督も務めた松本安市は「絶対に木村が史上最強だ。人間離れした強さがあった。ヘーシンクも山下も含めて相手にならない」と語っている。

『前三角絞め』の開発者として有名な早川勝は「比べものにならない。山下もたしかに強いけども、僕らの時代は木村先生と何十秒間試合できるかというのが話のタネだった」と話す。

同じく木村に稽古をつけてもらった弟子蔵本孝二(モントリオールオリンピック軽中量級銀メダリスト)は「ぜんぜん問題にならないです。立っても寝ても腕ひしぎ一発です」とし、「僕が五輪や世界選手権で戦った選手たちより五十代の木村先生のパワー、圧力のほうが ずっと強かったですから。現役時代の強さは想像もできないですよ」と述べている。

最後になるが、『ゴッドハンド(神の手)』と呼ばれた、あの極真空手の創始者である大山倍達は久村と同じ拓殖大学で後輩にあたるが、実際に木村の試合を観戦しており、「木村先輩の全盛期であればヘーシンクもルスカも3分ももたないと断言できる」と締めくくっていた。